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歴史・文化・史跡

記事ID:0000439 更新日:2020年11月16日更新 印刷ページ表示

歴史・文化

三分一源之丞碑(和木装束水道記)

三分一源之丞碑の画像  正保元年(1644年)に建設された用水路を、天保年間に瀬田口から五本松まで延長し、開閉式堰提とうぐろ樋によって小瀬川から直接水を引き、和木・装束一帯の農地に活を与えた三分源之丞(天保11年・1840没)父子の顕彰碑です。源之丞はその完成を見ることなく亡くなりましたが、その志は嫡子権四郎によって継承され、見事に完成されました。

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三秀神社遺跡記念碑

三秀神社遺跡記念碑の画像  200年にわたる吉川、浅野両藩の国境争いの中で、宝暦2年(1752)10月、小瀬川口の与三野地で起こった騒動は、乱闘の末双方に多数の死傷者を出す惨事となりました。
 それから50年後の享和2年、両藩は和解し国境が確定しましたが、この時吉川藩主は祠を建て犠牲となった野脇新六、坂戸源右衛門、兒玉治良兵衛の3人を神に祀りました。

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米元廣右衛門碑

米元廣右衛門碑の画像  米元廣右衛門(文政6年~明治22年)は若くして殖産に志し、織工、製紙、養蚕など多くの事業を手がけましたが、ことごとく失敗しました。
 しかし、挫折することなく、晩年、小瀬川口に海苔の養殖を思いつき、ひたすら研究を続け試行錯誤を重ねた末、明治21年遂に成功を収めました。以来、農家では海苔の製造を副業とし家計を潤しました。

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願掛地蔵

願掛地蔵の画像  その昔、八幡山の崖下は深い淵で、そこに毎晩のように得体の知れない怪物が現れるというので、日が暮れると怖がって誰一人通る者がいなくなりました。
 そこで、道辺に地蔵菩薩をお祀りしたところ、それから怪物が出なくなったのでお地蔵様への信仰が高まり、諸事の願掛けが行われるようになったと伝えられています。

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封境之地碑

封境の地碑  1866年(慶応2年)、江戸幕府の「第二次長州征伐」は長州側(山口県)では「四境の役」や「四境戦争」などと呼び、
 「芸州口の戦い」の舞台小瀬川の右岸の石碑は長州軍が幕府軍を長州側(和木町側)に一兵も入れることなく封じ込めたことを今に残しています。

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疫神社(創建年不詳)

疫神社の画像  その昔、疫病の流行はすべて疫神のなせる業と考えられ、約1200年前から諸国に疫神が祀られるようになったといわれます。
 御神体の古木(椨:たぶのき)は樹齢500年ともいわれ、毎年7月3日に藁で作った大蛇をこの御神木に巻き付け、お祓いをした後、当屋の人が獅子頭を被って集落をまわる、疫病追いの習俗が今なお伝承されています。

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妙見神社

妙見神社の画像  清源寺(宗永寺の前身)の住職、禅芳蔵主が、ある夜、夢の中に現れた尊者から「今からあなたに妙見の神霊をお預けしましょう」と言われ、告げられたとおり掘り返すと地中から神鏡が掘り当てられた。この鏡が御神体に違いないということになり、社殿を造営して奉納し、村の鎮守として祀ったと伝えられる。

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桂家菩提所(宋永寺)

桂家菩提所の画像  桂家は吉川藩の重臣です。慶長5年(1600)吉川広家に従って、出雲国富田から岩国へ移住しました。
 始祖桂元貞の次男に春房という人がおりました。春房は毛利氏の中国平定、更には文祿朝鮮の役にも出陣するなど武勇の誉高い武将です。
元和6年(1620)没後、嫡子家好によって宗永寺に葬られ、以後永く桂家の菩提所となりました。

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旧山陽道往還

旧山陽道往還の画像  山陽道は都と九州の太宰府を結ぶ主要道で、江戸時代には西国街道とも呼ばれ、参勤交代や奉行の往来、産業の基盤としての役割を持つ。またこの街道は当時、毛利元就が拠点とした吉田町、山陰、また海路・四国を分岐する重要な役割を担っていた。
 江戸時代、幕府の五街道と呼ばれていたのは東海道、中山道、奥州道、甲州道、日光道。山陽道(当時は西国街道もしくは西国往還と呼ばれていた)はそれに次ぐ大きな街道と言われていた。参勤交代や長崎への奉行などで大名行列が、1週間に1度の割合で山陽道を通過していた。

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虚空蔵菩薩堂

虚空蔵菩薩堂の画像  大谷・桜ケ峠にあり。虚空蔵堂は1間4方で、本尊は木仏正体5寸。
 大昔、他所の者が菩薩を盗み取ったところ、病気になった。菩薩を元に戻すと病気が治ったとの言われがある。「厳島沿革史」(藤田葆編)

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御用宿跡(浄蓮寺)

御用跡地(浄連寺)の画像  浄蓮寺は第二次長州征伐時の御用宿でした。
 長州再征を必至と判断した岩国藩は、有事に備えるべく慶応2年(1866)領境に諸隊を配備しました。当寺には慶応元年(1865)から翌年10月までの約1年間、緒戦において勇名を馳せたしゅう翼団をはじめ、室木口先鋒の各隊が相ついで出張し定宿としました。

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彦根戦死士の墓

彦根戦死士の墓の画像  慶応2年(1866)6月14日未明、第2次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊使番竹原七郎平は、従者2名と共に先陣をきって小瀬川を渡ろうとしましたが、長州軍(しゅう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れました。異境に死んだ三士の遺骨は、しゅう翼団隊長品川清兵衛によって、その勇を讃える碑文と共に安禅寺に手厚く葬られました。

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僧橘仙の墓

僧橘仙の墓の画像  明治7年、安禅寺に寄宿中死去した幕末の傑僧橘仙の墓です。
 弘化2年(1845)から吉川藩の菩提寺『洞泉寺』の住職としてとどまること15年、後加賀百万石の前田侯菩提寺『瑞竜寺』に迎えられました。曹洞宗永平寺貫主日置黙仙禅師、島津藩無三和尚(西郷隆盛の師)も橘仙の教えを受け、その学徳を深く尊敬していたといわれます。

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米村英雄の墓

米村英雄の墓の画像  米村英雄翁(明治元年~昭和11年)は和木村の人です。青雲の志を抱いて上京し、苦学して法学院(中央大学)に学びました。その後、明治・大正期の海運業界に身を投じ、その盛衰と共に生き、生涯を我が国海運の発展に捧げた立志伝中の人です。
 また、翁は終生郷土を愛し、巨額の私財をなげうって郷土の発展に尽くした恩人でもあります。

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加屋又蔵の墓

加屋又蔵の墓の画像  加屋又蔵(寛文9年・1669没)は和木村の庄屋でした。
 明暦(1655)の頃、装束浜(貝堀場)への入磯をめぐって安芸側と周防側との間に争いが起こった時、又蔵は死活にかかわるとして一歩も退かず、寛文2年(1662)遂に力ずくで磯を守り通しました。墓は遺言によって装束浜に建立されましたが、近年現在地(和木町共同墓地)に移されました。

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宝暦殉難三士の墓(養専寺)

宝暦殉難三士の墓(養専寺)の画像  1752年10月、小瀬川口の中洲(与三野池)において、吉川、浅野両藩の間に国境をめぐる騒動が起こり、その際犠牲となった野脇新六(釈教信)、坂戸源右衛門(釈清祐)、兜玉治良兵衛(釈浄願)ら三人の墓です。吉川藩主は翌3年、それぞれの子どもを武士に取り立て、各々に高十石を与えて今津御舟手組に召し抱えました。

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瀬田八幡宮本殿一棟(県指定)

瀬田八幡宮本殿一棟(県指定)の画像  正徳5年(1715)吉川亀次郎(六代藩主主経永)の命により修造されたもので桁行4.06メートル、梁間3.97メートルの前室付三間社流造、向拝(本殿の正面の張り出し部分)一間、銅板茸の社殿である。
 神社建築の様式を継承し、しかも棟礼により年代の確実な、県下でも数少ない十八世紀初頭の神社建築である。

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疫神社の厄払いの祭礼(町指定)

疫神社の厄払いの祭礼(町指定)の画像  今から350年の昔関ヶ浜地区に疫病が大流行したのをきかっけに始まったともいわれ、当屋の人が「疫病退散、家内安全」と声をあげ、榊で祓い清めながら、一軒一軒を回って歩く疫病追いの行司が今なお伝承されている。

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扁額「大瀧山」一面(町指定)

扁額「大瀧山」一面(町指定)の画像  安禅寺(曹洞寺)の山号額である。大門(鐘楼門)の正面に掲げられており、額面は松材、表面には船虫によると思われる無数の虫穴があき、船板を使用したものと思われる。背面には「為安禅院菩提寄付之、享保10年11月3日粟屋十郎兵衛公豊」と陰刻されており、吉川公家臣、粟屋十郎兵衛公豊が安禅院菩提のために寄付したもの。

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妙見神社の檜一本(町指定)

妙見神社の檜一本(町指定)の画像 地上3メートルのところから4本に分かれ、そのうち1本は更に15メートルのところで2本に分かれている。県内有数の巨木で妙見神社の御神木として尊崇されている。樹齢は六百年とも、それ以上ともいわれている。

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嘉屋文書(町指定)

嘉屋文書(町指定)の画像  江戸時代を通じて和木村の庄屋を勤めた嘉屋家に伝わる古文書(88点、うち絵44点)である。これまで、為政者側の史料に頼らざるを得ない状況下にあった町史に新たな光をあてるものもあり、唯一貴重な村方の史料である。

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仏像三体(町指定)

仏像三体(町指定)の画像 本尊 釈迦如来像
(木造 法量、像高69.7センチ)
脇侍 迦葉尊者立像
(木造 法量、像高60.8センチ)
脇侍 阿難尊者立像
(木造 法量、像高62.0センチ)

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